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第7官界彷徨

第7官界彷徨

古都を旅して、

源氏物語のゆかりの場所を尋ねて、2年に1度は京都に行っています。父母が仕事の関係で、しばらく京都にいたこともあり、私のこころのふるさと。私の好きな京都、奈良、近江の旅をまとめておきたい。

1 京より近江へ
1日目 岩清水八幡宮
2日目 比叡山、横川ー逢坂山関跡ー堅田浮御堂ー三井寺ー義仲寺ー瀬田の唐橋ー石山寺ー幻住庵跡
3日目 上賀茂神社ー下鴨神社ー宗道神社

岩清水八幡宮
岩清水八幡宮は、全国で四万社を数える八幡神社の総本宮、宇佐神宮の勧請(神を分霊したところ)として、京都府八幡市の男山に建てられた神社。源氏物語「若菜」の巻に、この神社の名が見える。本社の位置は山城平野の西の出口を擁し、平安時代の人々には鎮護の神を祭るのにふさわしい場所と思われただろうと想像できる。漆塗りの美しい八幡造りの本殿、外殿、幣殿、舞殿、楼門、回廊などは、徳川家光の寄進による重要文化財として手厚く保護されている。しかし、かつての岩清水八幡宮は現在の何倍ものそうだいなものであったようである。
徒然草の中でも有名。
(徒然草第52段)
仁和寺にある法師、年寄るまで、岩清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思いたちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何ごとかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。

ローザの感想~本殿の前に大きな榧の木があり、その幹に耳をつけて樹液の流れる音を聞きました。白馬がいましたね。とにかく広くて大きくて、まさに先達あらまほしの気分。

横川
比叡山延暦寺のことを三塔といい、その三塔の一つが横川。北塔ともいう。横川は伝教大師最澄の教えに従って、慈覚大師円仁が開いた。横川へ着くと、根本如法塔が、目のさめるような朱の美しさで姿をあらわす。848年、円仁は、横川中堂を建て、聖観音と毘沙門天を安置した。横川には、源信(恵心僧都ともいう)が念仏三昧に過ごした恵心院跡などもあり、横川は徒然草の吉田兼好が出家したところでもある。横川は東塔と遠く離れているが、各時代にわたって、高僧、名僧、日本の代表的な文化人を数多く育てた、いかにも修行の場所にふさわしい、神秘的な雰囲気の満ちた場所である。
 源氏物語の宇治十帖に、浮舟という女を救う「横川の僧都」は、源信をモデルにしものと言われている。物語では六十歳あまりとなっているが、このあたりを紫式部が書いた時、源信は生存していて、六十六、七歳だったと思われる。

感想~とにかく広くて大きくて、岩清水の比ではなく、自然と対峙して多くの人たちが悟りを開いて行ったというのは本当にすごい。京都の父の家から
借景で見ていた物静かな比叡の姿とは全然違うパワーを感じました。

堅田の浮御堂
 海門山満月寺という臨済宗大徳寺派の寺。近海八景のひとつ。平安時代の長徳年間に比叡山の恵心僧都が、湖上交通の安全と湖の鳥や魚の冥福を祈り、衆生済度のために建立したとされている。しかし、この地は中世において交通の要所であり、戦略上の重要拠点でもあったため、兵火によって幾度も焼失した。
 松尾芭蕉がこの地を訪れたのは元禄4年8月16日で、23人の門人と船で堅田の浦に遊んだ。
境内には芭蕉の「鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂」の句碑がある。

三井寺
 天台寺門宗の総本山。天智天皇の皇子弘文天皇(大友皇子)の子、大友与太王が建立したとされる。天智、弘文、天武の三天皇が産湯をつかったとされる井戸がある。鐘楼の鐘はいわゆる近江八景で有名な「三井の晩鐘」の鐘で、その音色はすばらしく、天下の三名鐘のひとつ。

感想~お金を払って鐘をつきました。大きい音でも静かな感じのする深い音色でした。

義仲寺
 治承4年(1180年)平家追討のために挙兵した木曽義仲は、入京後、平家と対立していた後白河法皇にまで弓を引くようになった。そのため、源頼朝は弟の義経と範頼に命じて義仲を討たせた。義仲寺には木曽義仲の墓があり、となりに愛妾の巴御前の供養塚が建っている。また、義仲の墓に並んで松尾芭蕉の墓がある。
 元禄7年(1694年)大阪の花屋仁左衛門の別宅で死んだ芭蕉の遺言によって、去来、其角らの門人たちが遺体を運び義仲寺に埋葬した。境内には芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句碑をはじめとして、門人達の句碑など19基がある。芭蕉は木曽義仲が好きだったといわれ、一時期住んだといわれる無名庵は義仲の墓のすぐ裏手にあったといわれる。
 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」

感想~芭蕉って結構男くさい人だったと思います。木曽義仲のどこに惹かれたのでしょうか。ともえの塚は本当に小さくて、平家物語の「ともえ、やまぶきとてふたりのびんにょをともなひけり」を忘れそう。

石山寺
 西国33ケ所観音霊場第13番目の札所。真言宗。天平寺宝6年(762年)東大寺の僧、良弁によって開かれた。良弁は、2歳の時母と桑畑にいて鷲にさらわれ、2月堂下の杉(良弁杉)に連れて来られたとの伝説がある。
 11世紀には、皇族や貴族たちの石山寺への祈願参詣が大流行するようになった。平安時代、長谷、石山、清水の3霊場は、女性たちの寺社参詣の集中した名刹だった。とくに石山寺は都との適度な距離感が旅心地をそそり、とりわけ琵琶湖の景観によって参詣者の心を深く捉えたことが、蜻蛉日記の記述などでもよくわかる。
 紫式部も宮仕えの女房の一人として石山詣でをしたことは推察できる。そしてこの寺で源氏物語を書きはじめたという伝説も生まれた。

感想~源氏をやるなら一度は行かなければという石山寺。にぎやかで、茶店の御食事も小じゃれていて好みではなかったけれど、確かに景観は良かった。紫式部が眺めた景色なのねと思いつつ見下ろしました。

幻住庵跡
 芭蕉が元禄3年(1690年)、4月6日から7月23日まで、約4ヶ月間滞在した。芭蕉の幻住庵記に「麓に細き流れを渡りて、翠微に登ること3曲2百歩にして、八幡宮(近津尾神社のこと)たたせたまふ」とあるように、今も小川が流れ、芭蕉がいつも清水を汲んだ「とくとくの泉」もまだある。
 1690年、義仲寺に滞在していた芭蕉の避暑地として、彼の弟子であった膳所藩士菅沼曲翠が、伯父の定知の旧庵を補修して提供した。芭蕉はこの住まいがことのほか気に入り、「先づたのむ椎の木もあり夏木立」の句を残した。

上賀茂神社
 世界文化遺産。下鴨神社に祭られている玉依姫命の子、別雷神を祭っている。古くは京都盆地北部に住む賀茂氏族の氏神として祭られていた。雷神を祭る神社なので、農耕の神として信仰を集めたと思われる。天武天皇6年(678年)、社殿を造営したと社伝にある。京都の3大祭り、葵祭りは上賀茂神社と下鴨神社の例祭。葵祭りと呼ばれるようになったのは、御殿や祭りに参加する人たちの髪に簪として「ふたばあおい」の葉を飾ったことによる。源氏物語葵の巻に、源氏の正妻葵の上と、かつての愛人六条御息所との有名な車争いの場面がある。

感想 齋宮がみそぎする流れや、形式にのっとった飾りなど、現代の日本かと思わせる風情が残っていてすてき。周辺も京野菜の畑があって、昔の京を偲ばせます。高級漬物屋さんも何軒か。

下鴨神社
 御所の北東に加茂川と高野川の合流点がある。これより下流を鴨川と呼び、区別している。この2つの川に挟まれた三角州の一帯は、古くから糺の森と呼ばれ、潔齋の地とされてきた。「源氏物語」では、光源氏が須磨に引退の挨拶に、父、桐壺院の陵に参拝に行く途中、このあたりで馬を下りて神に暇乞いをし「憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ名をばただすの神にまかせて」と、歌に詠んだ。森の最奥に下鴨神社が鎮座し、鬱蒼と茂る樹林の中に参道が南北に通じている。現在の社殿の配置は、齋王の居所である齋院と、神宮寺がなくなったほかは、ほぼ平安時代の時のままである。

2/涼秋の古都
1日目 渉成園ー大原野神社ー松尾大社ー清涼寺
2日目 平城宮跡ー唐招提寺ー薬師寺ーつば市ー長谷寺ー浄瑠璃寺ー岩船寺
3日目 泉涌寺ー東福寺ー万福寺

渉成園
 源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子であるが、源姓を賜って臣下に下った。光源氏のモデルの一人と考えられている。京都六条の賀茂川のほとりに別邸「河原院」を建て、風雅な生活を送ったことで有名だが、源氏物語の中の「夕顔」の巻の「なにがしの院」や、光源氏の権勢の象徴である「六条院」のモデルとされている。渉成園はこの河原院の西南に位置し、寛永18年、徳川家光が東本願寺第13世宣如上人に与えた土地に上人が別邸として住んだもの。

大原野神社
 京都盆地の西山の一つ、小塩山の東の麓にある。この神社は奈良の春日大赦を分祀したもので、藤原氏の力によって造営された。源氏物語の「行幸(みゆき)」の巻に、冷泉帝の大原野神社御行のことが書かれている。紫式部も参詣した筈である。

感想~昔を思わせるものは何にも無くて、崩れた石垣が少しあるだけ。それでも、遠くに京都の街並みが見えて、平安の貴族たちがせっせと通った気持ちがわかる気がする。柿と筍が産地で、地元の人は「土がちがうからや」と自慢してましたね。

清涼寺
 清涼寺の建っている場所は、かつて源融の山荘「楢霞観」のあったところ。観とは道教の寺院のこと。光源氏が嵯峨野に立てた御堂というのは、ここをモデルにしているといわれる。清涼寺の山門を入った左手に多宝塔があり、その裏に源融の供養塔がある。その北に融の父嵯峨天皇と檀林皇后(嵯峨天皇の皇后、しかし融の母ではない)の塔が並んでいる。
 融をモデルにした光源氏は嵯峨の御堂から離れたところに「桂の院」という別邸を営み、その別邸から御堂や大堰の明石邸に通った。
 清涼寺には秘仏とされる釈迦像がある。この釈迦像は寛和元年(985年)8月、中国の台州で作って日本に翌年持ち帰られたものだが、昭和28年の修理の折り、体内に絹で作った内臓の模型が入れてあるのが発見された。当時の解剖知識の正確さが、医学会を驚かせた。

感想~憧れの融様のことを思えば、清涼寺は本当に素敵。広々としていて観光客におもねていない。もちろん宝物館も拝観しました。内臓のぬいぐるみみたいなのも。これは制作者の遊び心だったのでしょうか。

平城宮跡
 和銅3年(710年)元明天皇が都を藤原京から遷都して以来、延暦3年(784年)桓武天皇が長岡京に移すまでの宮城のあと。9世紀に入って平城上皇が晩年を過ごしたが(薬子の変)上皇没後田畑と化し、江戸時代には位置すら正確でなくなっていた。幕末になって平城京に照明があてられ、大正11年国の史跡となった。1998年、朱雀門の復元が成った。

唐招提寺
 唐の僧鑑真が、聖武天皇の命を受け、幾多の難を経たのちに来日、東大寺に戒壇院を建立した。759年、平城京右京五条に唐招提寺を建てた。御影堂には肖像彫刻の最高傑作といわれる鑑真和上像が安置されている。
若葉しておん目の雫ぬぐはばや    芭蕉
という句は、この尊像を拝しての句。









5/近江路遠近(おうみじおちこち)
1日目 湖北の十一面観音めぐり
    向源寺ー充満寺ー鶏足寺ー石道寺ー医王寺
2日目 聖武天皇の紫香楽宮跡をたずねて 
  石塔寺ー紫香楽宮跡ー草津本陣跡ー竜ヶ岡俳人塚ー湖東三山ー太郎坊宮
3日目 京の町
    仁和寺ー嵩道神社ー長楽寺

向源寺
 高月駅から北へ500メートルほど行くと、向源寺の飛び地境内に観音堂がある。そこに、土門拳の写真や水上勉の「湖の琴」、井上靖の「星と祭」などで知られた渡岸寺の十一面観音が安置されている。渡岸寺の開期は不明であるが、天平八年(736年)都に疱瘡が流行、聖武天皇は除災の祈祷を泰澄に命じた。そこで泰澄は十一面観音を刻み一寺を建立したと、寺伝にある。その後延暦二十年(801年)桓武天皇の勅命により最澄が七堂伽藍を建立して栄えたが、元亀元年(1570年)織田氏の浅井責めの時の兵火により焼失した。しかし、観音像は村人の手により土中に埋められ難を逃れた。
 観音像は檜の一木作りの立像で、高さは195cm。平安時代初期の作と考えられ、最澄がこのあたりの寺寺を再興したときに作られた天台系の仏像と推定される。この十一面観音の頭上面は特別な配置がされている。
像は左手に水瓶を持ち、右手を長く下げ、腰は左に微妙にひねり右膝をゆるめてゆったりと立っている。艶やかな肌は妖しい光を放ち、方からかけた布、裳裾の平安初期貞観彫刻の伝統的衣紋のひだはすばらしく緻密。右足が少し前に出て、浮き気味なのを遊足というが、その美しい姿は官能的であるのに、崇高さを失わない。

感想~こんなところに、こんな美しい観音様が、とおどろくばかり。福井の原発からの送電線の下、倉庫のような中においででした。村びとが織田の軍勢から守った気持ちもよくわかります。あとで思えば、あの手入れされていない松林も、倉庫のような建物も、あのかたがおいでになると思うだけで懐かしく成るほどです。本当に本当に美しい観音様でした。行って良かった!
 この周辺は渡来人の村だったそうです。この観音様も、朝鮮半島で制作され、海を渡ってこられたそうです。この観音様を守ったのは、信長の野蛮な仕打ちに対する、村人たちの誇りだったのでしょう。


源氏、250回記念小旅行
 近所の人たちで源氏物語を原文で読む会を始めて、12年以上たちます。その250回記念ということで、記念のお食事会に、鴨川に行って来ました。
 月に2回あるんですけど、午後の1時30分からなので、熟睡・爆睡・・・。終わればそそくさと帰り、交流も少ないんですけど、やめる人がほとんどいないのはなぜでしょうね。
 1時間半だけ、机の前に座って、日常の暮らしとは違う世界に浸れるからかしら。sさんと私で、初めからずっと運営してるんですけど、何の連絡もしないのに、欠席も少ないんですよね。

 昨日は、バスでまず清澄寺へ。字が書いてあれば何でも読むというEさんが由来の看板を読んで「このお寺は、前は天台宗だったけど、経済面から、昭和24年に日蓮宗に改宗したんだってよ」と教えてくれました。そこで現在のにぎわいです。(宗派なんて関係ないのね)
 本堂の横にそれはそれは大きな楠の木があり、地上3メートルくらいのところに宿り木のように、5本の山百合の花が見頃に咲いていました。
 「おお、奇跡だ」と、拝むべきでしょうが、「誰かが球根を埋め込んだのね」と、おばばたちはクール。
 それでも、「来れてよかったね」と満足。

 おいしいお食事のときに、先生が「源氏をみなさんと読み進めていくのは、自分にとっても幸せなこと、身体に気をつけて長く続けたい」と挨拶され、みんな感激して乾杯。
 みなさんは、本当に先生のことを尊敬しているのです。

 そのあと、カンカン照りの中を鴨川シーワールドへ。若い人達に混じって、アシカやトド、イルカのショーを見ましたが、海のけものたちも、お利口で上手。イルカと、お姉さんやお兄さんとの呼吸もピッタリで、思わず拍手。リピーターが多いというのもわかりますね。

 それから道の駅で楽しい買い物。プラム、トマト、ピクルス、ししとう、空芯菜、小魚の酢漬けなどを買い、迷ってからオレンジ色の薔薇、10本160円を買いました。すぐしおれるのはわかっているけど。

 帰り道は、湊川を下って内房に出ました。このあたりは、低い山並みと、そこからの清流、湊川がゆったりと流れ、海の幸、山の幸に恵まれたとても良いところです。
 そういえば
「死刑囚と呼ばれるよりは呼び捨ての今がまだしもよろしかりける」
という歌で、朝日歌壇に鮮烈デビューした坂口弘の故郷はこのあたりだと聞いたことがあります。 


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